ぼくは人間じゃないんです。

ストレスの捌け愚痴とか、スペクトラム的日常の困りごと

役割としての命

最近は、乙女ゲームにも飽きてデジモンのゲームをやっています。やっぱり、他人の心理とか考えないで出来るRPGって面白いですよね。

 

そもそも、人間にそれほど愛着を持っていないのではないか、としみじみ思います。クリマイとかハンニバルとか見ていると思うのです。ちなみに、最近はクリマイとハンニバルばっかり見ているので父に「お前、サイコパスか?」と聞かれるのですが、別にグロいのを好んで見ているわけではなく、ああいった人の本質や性質をはっきりと描いてくれているドラマを見ている方が人間について勉強できるから面白いのではあって別にグロいのを楽しんでいるわけでも、興奮しているわけでもありません。

 

でもね、思うんです。ああいうの見ていても、別にグロいとか思わないし、むしろはーなるほどね、人ってこういうことで怒ったり悲しんだりするんだ。とか、感心してしまう自分ってちょっと異常なのかもしれないって。

この前見ていたドラマで娘が死ぬ運命なのを知った母親が、「娘を助けるためなら、自分の命なんて惜しくない!」って言っててなんか感動的な母親の鏡、みたいな雰囲気になっていましたが、あれって単なる自己満足ですよね。私、良い母親なの、子供思いなのっていう。色んな映画とかでそういうの見るたび思うんですけど、子供が一人しかいないのなら、いいです。勝手に一緒に死ねば。ただ、もし下にまだ子供がいるのであれば、もうすぐ死ぬ子よりもこれから何年も生きる下の子を優先すべきではないかと、だってその下の子は兄弟を亡くしたうえ、母親も一緒に死んで「ああ、母さんは自分よりお姉ちゃんを選んだんだ。」って思って一生生きていくんですよね。それって親として最悪な仕打ちだと思うんです。野生の動物は、自分の子どもが死にそうになったら見捨てて残った健康な子を育てます。それが、母親としての覚悟と使命だと思います。

たぶん、吾輩もそうするだろうし、家族の誰かが死にかけても残った誰かのために見捨てるし、もし自分だけ助かったとしても全く後悔や申し訳なさは感じないと思います。